「栗萬西遊記」

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第四十二話 越すに越されぬ大河の


 岩岩山を過ぎること早や一月(ひとつき)。一行が山を越えて突き進んで行く内に、暦は水無月へ変わり、秋駄犬にはつらい季節となりました。
その為に、だっちゃんにもいつもの威勢がなく、ぶーちゃんは歩きたくないと泣きます。栗萬法師はお馬の上でぐったりうな垂れております。
「駄目でふ、もう歩けないでふよー」
若様ぶーちゃんは、よろよろと倒れてしまいました。
「だっちゃんも疲れたよー」
無敵のだっちゃんも駄んべる棒を杖がわりに、ようやく立っているという有様。
「ああ、おらあ、なんだか景色が歪んで見えるだよ」
栗萬法師はばったりと馬から転げ落ちてしまいました。
辺りは草木も見えぬ荒野。ぎんぎんと頭の上でおてんとう様が照っております。
「もう駄目だ、おらたちゃあ、ここで死ぬだ」

栗萬法師はぶっ倒れたまま、世迷言を呟いております。
「あっ、水、水の流れる音が聞こえるよ!」
だっちゃんが、耳をぴくつかせながら言いました。
「あっちから聞こえるよー!」
水と聞いて元気を取り戻し、みんなはよろよろと、だっちゃんの言う方へ歩きました。
はたして、目の前に、海かと見まごうばかりの大河が現れました。
水の流れはごうごうと激しく、川幅は大きくて、先が見えません。
水は苦手の秋駄犬も、この暑さにはすっかりまいっているので、河にたどり着いた三匹は、狂ったように水を浴びました。
「冷てえよう、生き返るだよう」
「おいしいでふー、冷たいでふー」
「ふたりとも、あんまり体を乗り出すと、河へ落っこちちゃうよ。深みにはまったら大変だ」
だっちゃんの注意するとおり、河の水は深く淀んでいて、底なしのような暗さです。
「あれ、あんなところに、何か建ってるでふよ」
ぶーちゃんが影を見つけて、指差しました。
それは、大きな石碑であります。
近寄ってみますと、文字が刻まれています。
「なになに・・・?」
だっちゃんが文字を読み上げました。

「此処は川幅八百里
水深くして底無し
流れ激しくて魚(うお)住まず
 越すに越されぬ大河かな
 右手に血刀 左手にオール
 船上豊かにお犬様」

「ふーん・・・」
三匹は唸りました。意味の分らぬ文章ですが、要するに、この大河を渡るのは難しいようです。
「この河を避けて、西へ行く道はなかろうか」
栗萬法師が呟きました。
「誰かに聞いてみようよ」
だっちゃんは、辺りを見回します。すると、向こうのほうで、ひと影が、河原に動いているのを見つけました。
「あそこに誰かいるよ!道を聞いてみよう」
皆はだっちゃんの後に続いて駆け出しました。
「ねえ、ちょっと」
ようやくひと影に近づいて声をかけただっちゃんですが、相手のあまりの異形さに、思わずびっくりしてしまいました。というのも、その子は我らが秋駄犬の赤毛の仲間のようですが、頭に大きな中華ナベをかぶっていたからであります。ぶーちゃんも栗萬法師も、驚いて抱き合いました。
「僕に何か用ですか」
ナベをかぶったその子が言いました。
「あ、あの・・・、西へ行く道を教えてもらおうと思って・・・」
「西・・・?西へ行くにはこの川を渡るしかないです」
「この川に船頭さんはいるの?」
「まさか!こんな荒れ狂う川を渡れる者なんかいないよ!だからみんな、ここまで来て引き返すんだ」
「ところで、なんでナベを被ってるでふか?」
ぶーちゃんが恐る恐る尋ねると、その子は泣き出してしまいました。
「うっぐ、し、信は・・・信は・・・」
「なんかわけがありそうだね!わたしはだっちゃん、旅の秋駄犬だよ。よかったらわけを話してみてよ!」
だっちゃんが水を向けると、その子は涙ながらに身の上を語りはじめました。

「僕の名前は信玄。こう見えても、玉帝の近衛長官に仕える、イチの家臣だったんだよ。
ところがあるとき・・・、長官が玉帝より賜りし名刀犬八文字が無くなってしまったんだ!それも悪いことに、長官が玉帝の御前に伺候せねばならない前夜にだよ。長官はいつも、玉帝陛下のお目どおりの時には、あの名刀を下げていったんだ・・・。
僕はね、その名刀を管理するお役目だったんだ!だから、無くなったのは、僕の責任だっていうんだ。職務怠慢で切腹を命じられたんだけど・・・、長官が今までの僕の働きに免じて、死一等を免じてくださったんだよ。・・・そして、この河原へ追放されてしまったんだ!」
「それで、なんで中華ナベ被ってんの?」
だっちゃんの質問に、信玄くんは悔しそうに口を噛みました。
「僕は悔しくてね・・・、犯人を捕まえようと思ったんだよ!そしたらね、この河原の奥に不音天貫不楼(ふおんてんぬぶろう)というお城があってね、そこに住む魔女の仕業だったって分ったんだ!僕は戦いを挑んだよ!だけど悔しいっ!僕は魔女に呪いをかけられて、この中華ナベを頭に被せられてしまったんだ。このナベは、どんなにひっぱっても外れないし、このナベを被せられている以上神通力が使えないんだよ・・・。僕は、どうすることも出来ずに、ここでサカナを捕って暮らしてるンだ・・・」
語り終えた信玄くんは、涙あめあられ。その様子に、だっちゃんは苛々しました。
「泣いてたって、はじまらないよ!だっちゃんと一緒に、その魔女ってやつを倒しに行こうよ!悪いやつは、倒せばいいんだ!」
だっちゃんは義侠心に燃えて叫びました。後ろで栗萬法師とぶーちゃんは、オヤオヤと呆れています。
「でもね・・・、魔女は強いんだよ。城へ辿り着くまでにも、恐ろしい妖怪がいるんだ。三匹の妖怪が、城までの道に待ち構えているんだよ・・・」
「三匹の妖怪って、どんなやつ?」
「一番目の妖怪は、声憐(せいれん)という妖怪だよ。こいつはね、顔は女なのに、体は鳥なんだ。とても美しい声で、諸行無常の歌を歌うよ。この歌を聞いた者は、ことごとくその美しさに魅入られて、気が狂い、川へ身を投げてしまうんだ」
「声を聞かなきゃいいんだべえ。耳栓すりゃいいだ」
横から栗萬法師が言いました。
「で、二番目の妖怪は?」
「二番目はね、螺呑(らどん)という大蛇だよ。魔女の森を守っているんだ。こいつは恐ろしいことに、頭が百もあるんだ!その姿を見ただけで、きっとチッコをちびっちゃうよ!」
「大丈夫!そんなやつ、だっちゃんの駄んべる棒でゴチンだよ!それで、三番目の妖怪は?」
「最後の妖怪は強敵だよ。不音天貫不楼の門を守る妖怪でね、守賓供子(すひんくす)というんだ。顔は人間なのに、体は獅子なの。そしてね、門を通ろうとする者に謎々をいうんだ。謎が解けないと、食べられてしまうんだよ」
「あっ、おら其れ知ってる」
栗萬法師が言いました。
「謎々って、これだべ。朝は四本足、昼二本足、夕方三本足の動物なんだって、やつだんべえ」
「それなら、ぼくも知ってるでふよ。最初は赤ちゃん四つんばい、大人になって直立不動、年をとったら杖ついて歩くでふ」
「そうそう、答えは『人間』だよね」
ぶーちゃんとだっちゃんも言い添えました。さあ、これで三匹の妖怪対策術が出来ました。
「簡単、簡単、妖怪なんて、みんなちょろいもんだよ」
だっちゃんは胸を反らして言いました。
「さあ、妖怪退治に出発だよ!」


第四十三話 アアラ妖しの魔女の事


 大河の前で出会った信玄くんの、呪いと冤罪を解くために、出発した栗萬法師一向です。意気揚々と砂漠に続く道を進んでくる彼らの様子は、ちゃあんと魔女のセキュリティーカメラ―― 一名、水晶玉――に映し出されておりました。
「ほっほっほっ、小癪な犬ども。妾(わらわ)の城を攻めようなどとは笑止千万よの。おおかた、城へ辿り着く前に、三妖怪たちの餌食になることであろう」
と、魔女は口をつぼめて気取った笑い声をたてました。
「さてさて、こんな犬どもは放っておいて、毒りんご作りでもしようかいの」
やおら立ち上がった魔女は、着ている物を着替えると、地下室へと下りてゆきました。そこは、錬金術師の部屋のように、沢山のヘンテコな器具で埋め尽くされておりました。
魔女は、鍋に火をかけて、ぐつぐつ沸騰し始めると、様々の怪しげなものを放り込みました。
「どれ、まずはイモリの粉だよ、それから鶏の血さ、そうそう、忘れちゃいけない、クレオパトラのアイシャドーさ。こいつをよーくかき回してさ、オリーブオイルを入れるのさ、え、それからさ、メチルアルコールさ、別名メタノール、闇市のカストリによく使われていたあれさ、こいつを飲むとねえ、目が散る(失明する)からメチルって云うのさ」
魔女は、語りかけるような独り言を言いながら、鍋をかき回しております。
「毒を召しませ、ランララン」
機嫌よく歌いだす始末です。毒のペーストが出来上がると、お次は収穫したりんごを漬ける番です。
魔女は毒りんごを作るのが大変に上手でした。あんまり上手なものですから、知り合いの魔女たちからも、注文を受けるようになりました。貪欲な魔女は、これは良い商売の種になると思い、毒りんごの出荷を始めたのでした。この商売は大当たりで、続々と全国から毒りんごの注文が殺到しました。おかげで、一財産を築き上げることが出来たのです。
「これで老後の心配はいらぬ・・・」
と、大喜びの魔女ですが、魔女が老後を心配するなんてのも、おかしな話です。
さて、出来上がった毒りんごは、ひとつひとつ、丁寧に箱詰めされました。箱には、「不音天貫不楼産毒りんご」と書かれています。箱にはちゃんとQRコードがついていますから、携帯電話でピピッと読み込めば、生産者を確認することも出来ます。
「ああ、りんご作りも疲れたわな。どりゃ、犬どもはどうなったろう。もう妖怪の餌食になったかえ」
どっかりとアラビア風のソファーへ横になった魔女は、水晶玉を引き寄せました。
栗萬法師一向は、第一の妖怪、声憐の住む河原までやって来たところでありました。



第四十四話 嗚呼無常の声の事


 月の砂漠をはるばると、駱駝に乗っての旅ならば、それはたいそう風情のあることに違いありません。ところが、がんがんに照りつける太陽の下、馬上にまたがるのは栗萬法師ただひとり、残りの三匹は足軽、熱した砂漠は鉄板のように、彼らの足を狙うのでした。
「みんな、これを足に塗るでふよ」
ぶーちゃんが、荷物の中から、スキンクリームを出しました。ぶーちゃん特性のパット保護クリームの守脚膏です。
「ありがとう、ぶーちゃん」
皆は喜んでクリームを塗りました。
「はいはい、お代は十銭銅貨三枚でふよ」
「えっ、金取るの?ちゃっかりしてるなあ、二十銭に負けてよ!」
「しょうがないでふね・・・」
ぶーちゃんは皆から受け取ったお金を、大事そうにお財布の中へしまいました。
「それにしても、砂漠の旅なんて、聞くと見るとは大違いだね」
だっちゃんは、辺りを見回しながら言いました。
「おら、もっとロマンチックな旅さ想像してただよ」
栗萬法師も、照りつける太陽を睨みつけます。
「見て地獄でふね」
ぶーちゃんが呟くと、
「そうさ!砂漠は夜に限るのさ。青い月が空に大きくかかってね、砂が銀色に光るんだよ、さそりも夢を見るような夜だよ・・・」
信玄くんが、うっとりしながら語ります。
「僕はね、いつもあの河のとうとうと流れる唄を聞きながら、過ぎにし昔を思うのさ。ああ、あの河のせせらぎは、僕の生まれ故郷の川を思い出させる。思えばあの頃はラビアンローズ。僕は巴里っ子のぼへみあん。僕が街を歩くと、女の子はウィンクに投げキッスさ。花売り娘の巴里小町(パリジェンヌ)のチャチャとは割りない仲で、小指のかわりに爪を切って来世を誓ったのさ・・・」
「でへへ、とんだ助六ぶりだね」
栗萬法師は呆れながら半畳を入れるのでした。
お喋りしながら歩いてゆく内に、小さな川の前へ出ました。この川は、あのとうとうと流れる大河が分かれて出来たものですが、水の流れは穏やかです。真ん中には、石の橋がかかっておりました。
「そろそろ声憐が出るよ、みんな、耳の中に詰め物をするんだ」
信玄くんに言われて、皆は銘々耳栓をつけました。だけど、肝心なことを忘れている彼らです。犬の聴力は、こんな詰め物ぐらいでどうなるものでもない、ということを・・・。
「さあ、行くど」
栗萬法師の合図の声さえ筒抜けでした。
だっちゃんは駄んべる棒を構え、ぶーちゃんは熊手の柄を握り締めます。信玄くんは、重そうな中華鍋を両手で押さえました。
一向は、早足に石橋を進みました。と、どこからともなく・・・、

砂漠に日が落ちて・・・
夜となる頃・・・
恋人よ、懐かしい・・・
唄を唄おうよ・・・

ああ、なんとも美しい魅惑のメロデーが流れてきました。その哀しげな声、思わず涙ぐんでしまいそうな節回し・・・。唄は、尚も続きます。

あのさびしい調べに・・・
今日も涙流そう・・・
恋人よ、アラビヤの・・・
唄を唄おうよ・・・
(「アラビヤの唄」より)

これが、声憐の美しい歌声なのであります。かつて、数々の旅人を死の淵へと誘い、悩ませた声なのであります。
耳栓を通して聞こえてくる歌声に、皆は気が狂いそうになりました。
「あっ、なんて美しい声なのでふか?ぼくの魂を鷲づかみにする声でふ・・・」
「だっちゃん、なんだか眠たくなっちゃった・・・」
「ああ、信は、信は、世界の中心で叫びたい・・・」
三匹は、幻の虜になったように、ふらふらと踊りました。栗萬法師は栗萬法師で、声憐の歌声に胸をかき乱され、我知らず、唄を口ずさんでおりました。

おらは真っ赤な秋駄犬
生まれは寒い出羽の国
さくらんぼ畑の晴れた日に
箱へ詰められ空飛んで
上州の街に着きました
蓮どん蓮どん蓮どん 蓮どんかわいいヒトリゴト

上州屋のご主人に
頭をキセルで叩かれて
涙こらえてお店番
青いお空を見る度に
出羽のふるさと思い出す
蓮どん蓮どん蓮どん 蓮どんかなしいヒトリゴト

今頃どうしているだんべ
出羽のお国のおっかさん
あんちゃんねえやん
とっつあんは
元気に暮らしているだろうか
おまんま食べているだべか
蓮どん蓮どん蓮どん 蓮どんさびしいヒトリゴト

(「りんごのひとりごと」のメロデーでどうぞ。)

・・・栗萬法師の哀調を帯びた歌声が響き渡りました。唄っていると、昔のことがどんどん思い出されて、涙が止まりませんでした。
「おら坊や、おめえ、少しの辛抱だ、堪えて奉公さ行ってくれろ」
泣きながら言ったおっかさんの顔・・・。
「風邪さひくな、病気さなんな、上州の風はちめてえから、寝るときゃ腹さ冷やすな。ようぐご主人の言うことさ聞いて、かわいがってもらえ」
「おっかさん!」
ああ、もう恥も外聞もありません。駆け巡る思い出に、栗萬法師は大声で泣き出してしまいました。
この魂の叫びは、アーティストを気取る声憐の胸に響かぬ筈がありません。栗萬法師の唄に比べたら、声憐の歌などどれほどのものでありましょう・・・。
「アア諸行無常の栗の声!」
敗北を悟った声憐は、自ら水の中へ飛び込み、自滅してしまいました・・・。同時に、みんなにかかっていた呪いも解けました。
「やったあ!栗萬法師、お手柄だよ!声憐を倒したよ!」
「栗まんじゅう君、なかなかいい声してたでふよ!」
「ほんとだよ!パリの地下鉄で歌ってご覧!すぐに人気アーティストになるよ!」
皆は栗萬法師を囲んでバンザイをしました。
「ああ、おら・・・。こんな才能があったなんて、知らなかっただよ・・・。ひょっとするとおらは、かの吟遊詩人おるへうすの生まれ変わりかもしんねえ・・・」
皆に誉められて、丸い顔を益々丸くさせる栗萬法師ですが、よりによってオルフェウスを持ち出すなんて、オルフェウスもさぞかし心外のことでありましょう。


第四十五話 赤いりんごに唇寄する事


 栗萬法師の機転で第一の関門を超えた一向が、橋を渡って奥へと進んで行きますと、アアラ不思議や、この砂漠の真ん中に、こんもりとした森が現れたではありませんか。これは蜃気楼の見せる幻か、夢か現か寝てか覚めてか、面妖ナ・・・と、皆はほっぺをつねったり、頭をぶん殴ってみたり、首をかしげてみたりしましたが、いや、確かに森です。さわさわと草木は生い茂り、緑陰が砂の上へ涼しげに落ちております。
「これは魔女の森だよ!螺呑の住処だ・・・」
信玄くんは、震える声で言いました。
「皆、心して行くよ!」
だっちゃんの号令に、一同ゴックリと唾を飲み込みました。そして、森の中へと入って行きました。
「こんなに深い森じゃ、どこから出て来るか分んないでふね」
ぶーちゃんは不安げに辺りを見回しました。
「皆、おっかながることねえ、サア、唄さ唄うんべ、サンハイ、あるひんけつ、森のなかんちょう、クマさんにんにく、であったんこぶ・・・」
調子っ外れの栗萬法師の歌声に、忽ち彼の頭へたんこぶが出来ました。皆は怒って睨みつけます。
「し、静かにしなくちゃ、螺呑に見つかっちゃう!」
信玄くんは真っ青になってささやきました。
「ううう・・・、ごめんだよ」
栗萬法師は耳をぺったり下げて小さくなってしまいました。と、何処からともなく、サワサワと音がするので、一同飛び上がるほどびっくりしました。
「で、出たでふか?」
「いやあん」
「ナンマンダブ・・・」
ぶーちゃんも信玄くんも栗萬法師も、ぶるぶると震えています。だっちゃんは鼻をくんくんさせると、
「ねえ?いいニオイがするよ」
「え?」
だっちゃんに言われてくんくん匂いをかぐと、あら本当だ、甘―い香りが漂ってくるではありませんか。ニオイは、サワサワと音の鳴るほうからやってきます。恐る恐る其処へ近寄ってみると、暗い森が途切れて、りんご畑へ出ました。青い葉っぱがサワサワ揺れて、熟した果実の匂いに満ちています。
「りんご園だ!」
「りんごがなってまふよ!」
「りんごってこんな時期に実をつけるだか?」
きょろきょろ辺りを見回すと、「魔女の果樹園」という札がありました。ここでとれたりんごを使って、魔女は毒りんごを作っているのです。
「おいしそう!」
赤いつやつやしたりんごは、食欲をそそります。ゴクリ、なんべん唾を飲んでも次から次へと唾が湧き上がって、ヨダレがとまりません。
「いっこ食べちゃえ!」
だっちゃんはりんごを一個もぎとりました。
「だ、だめだよう!泥棒だよう・・・」
気弱に注意する信玄くんですが、五百年前に栗まんじゅうドロボーをやってのけただっちゃんですから、りんご一個が何程のものでしょうか。
「だっちゃん喉がかわいちゃったんだもん。いただきまーす」
シャリ、シャリシャリシャリ・・・。なんとも小気味よい音をたてながら、りんごを貪るだっちゃん。この音を聞いては、堪えられぬ。
「お、おらも・・・」
「ぼくも・・・」
「じゃ、信も、一個だけ・・・ね」
とうとう皆でりんごを食べはじめてしまいました。ああ、その美味しいことといったら!渇いた喉に、みずみずしいりんごの甘酸っぱさが広がって行きます。
もう一個、もう一個、あと一個・・・どうしても止められません。
「こんなにおいしいりんごははじめてだ」
食べたいだけ食べて、げっぷと口を拭うと、まあ随分食べたものですね、足元には食い散らかしたカスや芯がごろごろ転がっています。
「いいのかなあ。黙って食べたらドロボーだよね?」
心配そうに呟く信玄くんに、だっちゃんは豪快に笑ってみせました。
「いいんだよ!だって魔女も犬八文字を盗んだんだもの。おあいこ、おあいこ」
「うん・・・」
「それより、お腹いっぱいになったら、眠くなっちゃったよ」
「一休みするでふ」
皆は青々としたりんごの木の下で、ぽんぽんお腹を叩きながら、暢気に休憩しておりましたが、その時あやしく光る眼(まなこ)が、こちらに迫っていたのでした・・・。


第四十六話 松のヤニやら涙やらの事


 最初に気がついたのは信玄くんでした。彼は、皆がウトウト舟をこいでいる中、ひとり不安そうに森の奥を見つめていたのです。だから、微かな草の上を這う音、ただならぬ気配の近づいているのを悟ったのです。
「みんな、起きてよ!変な気配がするよ・・・!」
信玄くんに揺り起こされて、だっちゃんたちはあくびをしいしい起き上がりました。
「きっと、螺呑だよ・・・」
信玄くんの言う通りでした。緊張して待ち受ける彼らの前に、草木を掻き分け現れたのは、言うもおぞましい化け物であったのです。
「ギャアー!」
みんな悲鳴をあげました。こんなに気味の悪い怪物ってあるでしょうか?大きな体には、青光りした鱗がひらめき、その頭は百もうごめいております。百の頭はうじゃうじゃとうねり、それぞれの口からチョロチョロ赤い舌を出しているのは、まるで地獄の炎のようでした。ぞうっと体が総毛立つ思いです。
恐ろしさに硬直しておりますと、螺呑は百の頭を鎌首もたげて、こちらへ這い寄ってきました。この化け物は、魔女のりんご園を守っているのです。だから、だっちゃんたちに荒らされたことを、ひどく怒っているようでした。
「こっちへ来たよー!」
「だっちゃん、助けて!」
みんなはだっちゃんの後ろへ隠れましたが、さすがのだっちゃんもこの螺呑を前にして、体中の毛がぴいんと逆立ちました。だっちゃんは、駄んべる棒を振り上げて叫びました。
「ぶーちゃんは、栗萬法師と信ちゃんを連れて避難して!だっちゃん、すぐに片付けるからね・・・」
ぶーちゃんは、だっちゃんの指図に従って、栗萬法師と信玄くんを安全なところまで避難させました。
螺呑は怒りの咆哮を上げながら、ぶーちゃんたちを追いかけようとします。
「待ちな、だっちゃんが相手だよ!」
だっちゃんは、螺呑の頭に駄んべる棒を打ちつけました。今まで、どんな化け物も、この一撃で片付きましたが、螺呑はそうはいきません。百の頭が駄んべる棒にからみつき、ぐいと持ち上げたからたまらない、だっちゃんは駄んべる棒を握ったまま、宙吊りになってしまいました。
「大変、だっちゃん!」
物陰から様子を窺っていたぶーちゃんは、急いで援護の為に飛び出しました。
「こらっ、化けうわばみ、だっちゃんを放すでふよ!」
コショウ爆弾を頭目掛けてぶん投げましたので、螺呑はびっくりして駄んべる棒を放しましたが、コショウが目に入るのを免れた頭は、赤い舌をチョロチョロ出しながら襲い掛かってきます。
「だっちゃん、退避でふよー!」
ひとまずふたりは、戦線を離脱しました。

「なんて手ごわいんだろう!」
命からがら退避しただっちゃんとぶーちゃんは、犬ながらも汗ビッショリ。心臓がぞくぞくと、まだ高鳴っております。
「あいつを倒さないと、先へは進めないんだよ・・・。どうしよう」
信玄くんは絶望したようにうつむきました。
「あんなに頭があるなんて、反則だよ!ああ、思い出しただけで気持ち悪くなっちゃうよ・・・」
だっちゃんもぶるると身震いしてみせます。
「なんとかあの化けうわばみをやっつける方法はないでふか?」
ぶーちゃんは腕組みします。
栗萬法師は、ふっと上州屋の丁稚小僧時代を思い出しました。
上州屋のご隠居は、それはたいへんな蛇嫌いでした。
庭の藪へ蛇が近づくのを恐れて、煙草で作った蛇除けの薬を撒いていたのです。その為に先代が丹精した庭木が枯れようと、まるで隠居は構いませんでした。
「そうだ、煙草だ」
栗萬法師は呟きました。
「え?」
「煙草だよ、煙草があれば、蛇除けになるんだが・・・。煙草なんてだれものまねえから、ねえよなア」
「煙草ならあるでふよ」
ぶーちゃんが言いました。
「この間の岩岩峠の戦利品の中にあったでふよ。食べ物はみんな食べちゃったでふが、煙草はあとでお金に換えようと思ってたでふ」
「ぶーちゃん、その煙草出して!」
言われてぶーちゃんは、伽弟楽に積んだ荷物をガサゴソ掻き分け、戦利品の煙草を出しました。
「栗まんくん、これをどうするの?」
信玄くんは不思議そうに尋ねます。
「いいだか、煙草のニオイが、蛇は嫌いなんだど。昔は煙草の葉っぱ干してっと、家に蛇さよっつかなかったもんだ。これのニオイで、あの化け物さやっつけんべ」
「でも・・・、だれが煙草を持って蛇に近づくの?」
「それはだっちゃんに任せてよ!」
だっちゃんは、ポンと胸を叩きました。
さあ、煙草の蛇除け作戦のはじまりです。
さっそく煙草の封を切って、お線香のように束にして火をつけますと、凄いニオイです!この煙草は、あのおくび大将の愛用していたもので、独逸煙草なもんですから、トルコ葉使用の強烈なニオイなのです。
「これで、あのキモチワリイうわばみもイチコロでふね・・・」
ぶーちゃんはゴホンゴホンと涙を浮かべました。
みんなは、手に手に線香のような煙草の束を持って、りんご園へ向かって走りました。
「螺呑、覚悟!」
りんご園では、あのおぞましい螺呑が、百の頭を鎌首もたげて待ち構えておりました。
「さあ、ここからはだっちゃんに任せて!エイッ!」
掛け声勇ましく、自らの赤毛をむしりとっただっちゃんは、「変われ!」と呪文をかけました。だっちゃんの毛は、あっという間に小型だっちゃんに変身し、それぞれ煙草の束をくわえて、螺呑に襲い掛かります。
「みんな、煙草をうわばみに投げつけるでふよ!」
ぶーちゃんの号令で、信ちゃんも栗萬法師も、煙のモウモウとあがる煙草の束を、螺呑に向かってぶん投げました。
忽ち、螺呑は煙草の煙に巻かれてしまいました。
「らどーん!」
悲鳴をあげながら、螺呑はのた打ち回ります。煙草のヤニが、目にしみて、二百の眼(まなこ)からは、ぼろぼろと滝のような涙!
「今だよ、だっちゃん!」
信玄くんが叫びます。だっちゃんは、エイヤっと駄んべる棒を振り下ろしました。殴られた螺呑は、どっしゃっと重たい体を横たえ、動かなくなりました。
「バンザイ!螺呑も倒したよ!やったあ」
みんな飛び上がったり抱き合ったりして、歓声をあげました。
「みんなで力を合わせれば、出来ないことはないんだね!」
信玄くんは、感激して言いました。
「そうだよ!信ちゃん。力を合わせれば無敵なんだよ!」
「僕は嬉しいっ!魔女にナベを被せられたときには絶望したけれど、みんなに出会って、勇気をもらったよ!僕も魔女と戦うんだ!ひとりは、四匹のために!四匹はみんなの為に!」
さあ、りんご園の次には最後の妖怪、守賓供子の守る城門です。
「君と別れて松原行けば、松のヤニやら涙やら」
栗萬法師は馬上でうららかに唄い、一同後へと続きました。


第四十七話 難しきなぞなぞの事


 魔女の森が終わり、さあっと明るい太陽がみんなの目を射抜きます。まぶしい!思わず前足をかざして、お目目をしょぼしょぼさせていますと、青い空が一面に広がり、その空をも突き抜けるような石造りの楼閣が浮かび上がりました。これこそ魔女の根城、不音天貫不楼なのであります。
城は、石の塀と深い堀に守られて、門はガッチリと閉じています。そして、門の脇の台座には、獅子の体に人間の顔を持った化け物が、彫刻のように鎮座しているのでした・・・。
「ぬしらが此処まで来たということは、同輩の仇となるか」
城門の前で、守賓供子は静かに言いました。
「余の問いに答えられるものなら、答えてみよ」
冷たい目で睨みつける守賓供子ですが、だっちゃんたちはへっちゃらです。
「へへん!カンタン、カンタン。言ってみな!」
守賓供子は、一呼吸おいてから、問題を出しました。
「さて、此処に六つの菓子がある。是を、菓子にいっさい手を加えず、五匹の猿へ平等に分け与えるには、どうすればよかろうか」
「・・・え?」
みんなは一瞬、何を言われたか分りませんでした。それは、全く予期していない問題であったからです。
「問題、違くないでふか?」
ぶーちゃんは、おずおずと聞き返しました。しかし、守賓供子は氷のような声で、答えを促すばかり。
「さあ、答えよ!」
「えー!」
「さあさあさあさあ!」
これには弱った!六つのお菓子に手を加えず、五匹のお猿に平等に分け与えるなんて、いったいどうしたらよいのでしょうか?みんなは首をひねって、砂の上に数式を書いては消し、書いては消しますが、まるで分りません。
「さあ、どうだ、答えはどうした」
「ま、待ってくらはい」
「えっとー・・・、足し算じゃなし引き算じゃなし、割り算でもなし、分数かなあ?」
「さあ、答えらぬのなら、ぬしらを喰らうぞ」
「ああ!分んねえ!こりゃ、むつかしござるだ!」
栗萬法師が頭を掻き毟りながら叫びますと、どうしたことでしょう!守賓供子は、お堀に身を投げてしまったではありませんか!
「えっ?」
何が起こったのか分らず、みんなはあっけにとられています。
「おら坊、今なんて言ったの?」
「え?お、おら・・・、むつかしござるって・・・」
「むつかしござる・・・?」

むつかしござる・・・
六つ菓子五猿・・・

「だ・・・駄じゃれでふ・・・駄じゃれでふ」
「駄ジャレなの?これが答えなのー?」
ずいぶんあっけない守賓供子でありました。いつまでもあきれてばかりはいられません。守賓供子の死とともに、不音天貫不楼の門がバーンと音をたてて開きました。閉門の呪いが解けたのです。門の向こうには、石畳を敷き詰めた小道が、奥へと続いておりました。
「さあ、いよいよ魔女の根城だ。みんな、心の準備はいい?」
だっちゃんの声に、今日はこれで何度目かの唾をゴックリ飲みました。伽弟楽は門の前で待たせることにして、一向はゆっくりと石の小道を歩みだしました。


第四十八話 睡蓮は薔薇に王位奪われる事


石の小道の両脇は、背の高い糸杉が整列しておりました。糸杉を抜けると、ポプラの森へ出ました。更に進んで行くと、魔女の庭園へ出ました。庭は、彼女の丹精した花や木で美しく彩られておりました。
どれも魔法が施してありますので、季節はずれでも構わず花をつけているのです。あちらの花壇にはチューリップ。こちらの花園には黒百合の花。水仙、すみれ、ヒヤシンス・・・。どの花もあやしく、人の魂を飲み込んでしまいそうな雰囲気です。だっちゃんたちは、その花々に目もくれず、ただまっすぐ道へ沿って歩きました。そして、薔薇園の前へと出ました。
薔薇園は、垣根が塀のように高くそびえております。一歩中へ踏み込むと、まるで迷路でありました。
「みんな、はぐれないようにしっかりついてきてね!」
だっちゃんは先頭に立って、薔薇の迷路へ分け入ります。つうんと鼻を刺激する、独特の芳香に満ち溢れています。
この匂いは、嗅いだ者を呪術にかける魔法の匂いなのですが、それを知るよしもないだっちゃんたち。お互い離れないように歩いていたつもりなのに、気がつくとそれぞれバラバラになって、薔薇園を彷徨っていました。
「あれ・・・、みんなはどこ?」
信玄くんは、ふっと気がつくと、いつのまにか独りになっていました。あの角を曲がるまでは、確かにだっちゃんたちの後ろへくっついていた筈なのに・・・。
「どうしよう・・・。道に迷っちゃったのかな・・・」
きょろきょろ辺りを見回すと、彼を囲む薔薇の垣根には、青い花が咲いておりました。空よりも深く、海よりも沈んだ青です。青い薔薇は、雨の降った日のような、湿った匂いを放っています。その香りに包まれて、信玄くんは急にかなしくなってきてしまいました。
「ああ・・・、僕・・・。みんなにはぐれてしまって、どうしようっ。僕、なんだかかなしいっ。どうせ僕は、魔女の呪いをかけられた、哀れなナベかつぎの信でれらなんだ・・・。僕なんて・・・僕なんて・・・」
涙は次から次へとあふれ出て、止まることを知りません。胸がしめつけられたように苦しくなり、これ以上歩くのも嫌になりました・・・。

一方、ぶーちゃんは、石につまずいて転んでしまいました。起き上がったときには、みんなの姿がありません。びっくりして、遅れまいと走っていたら、黄色い薔薇の咲いている所へ出ました。薔薇は、日曜日の朝のような匂いがしました。
「きれいな薔薇でふねー。いいニオイするでふ。ぼくによく似合う薔薇でふ」
ぶーちゃんは、薔薇を一枝手折ると、口にくわえてポーズをとりました。
「ハーイ!」
なんておどけてみせるぶーすけくんです。我ながらおかしさがこみ上げてきました。
「ぶっ!ふふふ・・・ふ・・・あはは・・・ひゃひゃひゃ!ハハハハハ!」
どうにも笑いがとまりません。涙がこぼれて、息が苦しくなりましたが、笑いは当分止まりそうもありませんでした。

さて、だっちゃんは、先陣きって意気揚々と歩いていましたが、急に後ろが静かになったので、変に思って振り返りますと、オヤオヤ、だれの姿もない。
「やだなー!みんななにぐずぐずしてるんだろ!」
しばらく立ち止まって、みんなの追いつくのを待ちましたが、待てど暮らせどやってこない、だっちゃんは苛々して、仕方なく引き返すことにしました。ところが、同じ道を辿ったはずなのに、さっきとは全然違う風景の所へ出てしまいました。真っ赤な薔薇の咲いている広場です。
深紅の薔薇は、スペインの乾いた空と土のような香りを奏でます。だっちゃんの鼻は、すっかりこの香りに支配されてしまいます。
「うー!だっちゃん、なんだか喧嘩したくなってきちゃった!」
だっちゃんは、めったやたらに駄んべる棒を振り回しました。息が、ゼイゼイと乱れても、駄んべる剣舞をやめる気にはなれませんでした。赤い薔薇の広場で、ひとり狂ったように踊るだっちゃん・・・。

そして栗萬法師と言えば。
彼は急にシッコがしたくなったのです。
さいしょは、我慢しようと思いました。でも、駄目です。こう、下半身がもじもじ、イライラ。
「あすこの隅っこでやっちゃうんべ」
薔薇の茂みへ入り込み、そこで片足あげてシャーシャーやると、ほっと体が軽くなりました。
「ああ、すっきりしただよ」
栗萬法師は、爽快感に息を吸いました。茂みには白い薔薇が咲いています。白い薔薇のニオイが、栗萬法師の体へと吸いこまれて行きました。
「・・・?」
途端に、彼の頭の中は、真っ白になってしまったのです。
此処が何処なのか、これから何処へ行かなくてはならないのか、自分がだれなのか、何処からやってきたのか、もう何もかもが分らなくなってしまいました。
栗萬法師は、のんびりとした心持ちになって、でへでへ笑い、まんじゅう顔を益々丸くして、ふらふらと彷徨いはじめました。
「ケセラセラ、ケセラセラ、ケセラセラ・・・」
不気味な笑いを浮かべながら、彷徨える栗萬法師。まるで夢遊病者のような足取りです。あっちへふらふら、こっちへふらふら、水に浮かぶ木の葉の如く歩いておりましたら、薔薇園の外れまでやってきました。前も見ずに歩いていた彼は、何かにぶつかって、派手にすっころびました。
「ひゃあっ!」
ゴチン!と額に一発。しかし、そのおかげで渇の入った栗萬法師です。
「あれ・・・、おらは・・・おらは・・・ここはどこだ・・・」
薔薇の垣根が途切れ、草がぼうぼうの空き地に、栗萬法師は座り込んでいました。彼がぶつかったのは、水の枯れかかった水盤でありました。
その水盤は、石の彫刻で美しい乙女の姿が刻まれており、乙女は壷を傾けるのですが、壷からは水が、今にも途切れそうに、チョロチョロ・・・と落っこちているばかり。
水盤にたまった水は、底が緑色ににごっています。
栗萬法師は、しばらくぼんやりと水面を見つめていましたが、どこからともなくすすり泣きが聞こえてきたので、ぎょっとしました。
「だ、だれだ・・・、だれかいるんか・・・」
背筋をぞくぞく震わせながら、勇気を振り絞って声をかけました。すると、返事が返ってきたのです。
「ああ・・・珍しや、この花園に、犬の姿を見るとは・・・」
「お、おめえはだれだ・・・。で、出て来るだよ!」
「我らは、あなたのすぐ目の前におります・・・。さあ、その水盤の中を、よおくご覧になってください・・・」
声は、確かに水盤の中から聞こえました。栗萬法師は身を乗り出しました。
ああ!見える見える。花です。睡蓮の花が、水盤の下へ沈んでいる。もう枯れて、朽ち果てようとしている、睡蓮の花々・・・。
「わたくしどもは、この水盤へ生けられた睡蓮の花でございます・・・。今はかような身の上となりはてましたが、かつてはこの庭園の花々を司る、花の王でございました・・・」
「花の王様が、どうしたって、こんなことになってるだ?」
「・・・お恥ずかしながら・・・我々睡蓮は、ひつじ草とも申しまして、ひつじの刻には、花弁を閉じ、眠りにつくのが慣わしでございます。その為に、夜の花園を守ることができませぬ。それでは、なんの為の花の王ぞと・・・薔薇に王位を奪われてしまったのでございます・・・。薔薇は、恐ろしい花でございます。あの香りをきいた者を、ことごとく呪いの虜にしてしまうのでございます・・・。魔女の使いである薔薇は、権勢を誇って、この花園を苦しめているのでございます・・・。わたくしどもの水盤は、ご覧の通り水も枯れはてようという有様。薔薇の横暴を、どうすることも出来ず・・・」
「かわいそうに・・・」
睡蓮の物語に、栗萬法師は同情の涙をこぼしました。
「我らを哀れと思し召すなら、何卒この苦界よりお救いくださいませ・・・」
「助けてっちったって・・・、おらはただの栗萬面の坊さんなだけで・・・」
「栗萬・・・?もしやあなた様は、かの栗萬法師ではございませぬか」
思わぬところで名前を当てられて、栗萬法師は驚きました。
「お、おらを知ってるだか?」
「おお・・・!あなたこそ、我らをお救いくださる方。あれは過ぐる如月の頃、我らの夢の中に栗萬大菩薩様が現れて、いつか栗萬法師が、我らをこの苦界よりお救いくださると、ありがたきお告げ。あれより、法師のご到来を、葉を折り数えておりました・・・」
栗萬大菩薩、栗萬法師の知らないところで、宣伝活動をやっているものとみえます。
「だども、どうしてお前さんがたを助けたらいいんだ」
「薔薇どもに魔力を与え、のさばらせているのは、この城に住み着いた悪い魔女の仕業にございます。魔女を成敗すれば、この城の全ての呪いは解け、我々ももとの力を取り戻すことができるのでございます」
「いったいぜんたい、この城の魔女は何者なんだ」
「栗萬法師は、東方からおいでになったのなら、ご存知ないかも知れませぬが、この魔女は、もとは天竺に巣くう魔物にございました。天帝の命で近衛長官が、名剣犬八文字の力で退治たのでございます。ところが、命からがら逃れた魔女は、この砂漠へ棲みつき、隙を狙って犬八文字を盗み出してしまったのです。あの剣さえ封じしてしまえば、魔女は恐いものなしなのですから」
「へえ!魔女にはそんな来歴があっただか」
栗萬法師は呆れたり、感心したり、しきりにどんぐり眼をウロウロさせております。
「だども、一体どうしたらいいだ・・・。おらは、みんなと離れ離れになってしまっただよ・・・。薔薇の匂いさ嗅いだら、頭が真っ白になっちまって、なにがどうしたんだか、サッパリ覚えていねえだ」
「この薔薇園には、恐ろしい呪いがかけられております。薔薇の奏でる匂いの魔術を防がなくてはなりません。
黄色い薔薇の香りは「喜」、赤い薔薇は「怒」、青い薔薇は「哀」、白い薔薇は「楽」の香りを放っております。また、もっと奥へ進みますと、嫉みの香りの紅薔薇、憎しみの黒薔薇、恨みの紫薔薇が咲いております。この匂いの呪いを防ぐお経を教えて差し上げましょう」
睡蓮はそう言って、栗萬法師にお経を授けてくれました。
「さあ、このお経を唱えて、みんなと合流してください。城のどこかに隠されている、犬八文字を見つけ出せば、魔女を倒すのは容易いことです」
「その犬八文字は何処にあるだ」
「残念ながら、それをお教えすることは出来ません。私どもにも、分らないのです。ただ・・・風の噂に、このような唄を聞きました。その唄の謎を解けば、あるいは分るかもしれませぬ」
「その唄教えてくんな!」
栗萬法師に乞われて、睡蓮は、静かな声で歌いました。

白くて冷たい死人の肌
口はあれども歯は無し
聞こえてくるのは嘆き声
光も差さぬ闇の奥
五穀が生まれ死する処
此処は犬八文字の隠し処

なんとも、ぞっとするような唄の文句です。それでも、大切なヒントなのですから、栗萬法師は、忘れぬように、何度も口の中で繰り返しました。
「ありがとうよ、睡蓮さん。おらも俗名は蓮太郎だ、まんざらおめえさんがたとも、縁がねえわけじゃねえだ。きっと薔薇から王位を取り戻してやっからね」
栗萬法師は睡蓮に別れを告げて、薔薇園へ引き返しました。

今度は薔薇の呪いに惑わされぬように、睡蓮から教わったお経を唱えながら、栗萬法師は薔薇園を進んで行きました。
真っ赤な薔薇の広場へ出ると、そこではだっちゃんが、うー!と毛を逆立てて、駄んべる剣舞を舞っているところでした。
「うー!だっちゃんの駄んべる棒を食らえ!」
栗萬法師の姿を見るなり、襲い掛かってくるだっちゃん。慌てて栗萬法師はお経を声高に唱えました。すると、だっちゃんは、ハッと目が覚めて、駄んべる棒を落としました。
赤い薔薇の呪いが解けたのです。
お次はぶーちゃん。
黄色い薔薇の小道で、笑いが止まらず苦しんでいます。
栗萬法師とだっちゃんの姿を見ると、指をさして笑い転げました。
「ぶふふっ!なんて面白い栗まん面でふか?まんまるでふ。まんまるでふよー!ケラケラケラ・・・」
栗萬法師、ムッとしながらも、お経を唱えますと、ぶーちゃんの笑いはようやくおさまりました。ぶーちゃんは涙をふきながら、ため息をつきました。
さあ、最後は信ちゃん。
青い薔薇の前で、さめざめと泣き続けています。
「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい・・・」
「信ちゃん、しっかりするだよ!」
栗萬法師は一生懸命にお経をよみました。その声を聞いた信ちゃんは、さっきまであんなに悲しかったのが、嘘のように気持ちも晴れ晴れとして、明るい心を取り戻しました。
これで、みんなの呪いが解けました。栗萬法師は、睡蓮の話を聞かせました。
「いいだか?隠された犬八文字をめっけるんだど。そうすりゃ魔女はイチコロだ」
「栗まん君、今日はどうしたでふか?やたらと冴えてるでふね」
「でへへ」
「ほんと、今回はえらい大活躍じゃない」
「でへへ」
栗萬法師は、嬉しくなると、顔が益々まんまるくなるのです。彼は、まんじゅう顔をほころばせ、でれでれ笑って言いました。
「おらだって、やるときゃやるだよ」

薔薇園でバラバラになったみんなの心はひとつになり、一同気持ちを新たにしてお城へと向かいました。栗萬法師はお経を唱え続け、みんなを薔薇の呪いから防いでくれました。


第四十九話 犬八文字の隠し処の事


「おのれ、小癪な犬どもめッ」
水晶玉で、事の次第を知った魔女は、わなわなと震えながらヒステリックに怒鳴りました。
「犬の分際にて、妾に戦を挑もうなどとは身の程知らずな。エエイ、打ち殺して、犬の天麩羅にしてくるるわ」
額に青筋をたてて、ソファーから立ち上がった魔女、高鳴る怒りの動悸をしずめるために、まずは救心を一粒ゴクリ。
「さてさて、きゃつらをどう料理してくれよう?・・・ウウム、・・・よしよし、あの手がよいわい」
独り合点の魔女、アブラカタブラ、ウジャラムジャラのチチンプイと、おかしげな呪文を唱え始めました。さて、一体どうしようと言うのでしょう。

栗萬法師の呪文のおかげで、無事薔薇園の迷路を抜け出した一行は、とうとう不音天貫不楼の入り口の前へと到着しました。イオニア式希臘(ぎりしや)の柱がズラリと並んで、奥は薄暗く、人っ子一人いない様子。
「一体、犬八文字は何処に隠されているんだろうね」
何処から手をつければ良いのやら、みんなは途方に暮れてしまいました。
「栗まんじゅう君、さっきの唄、もう一回聞かせてくだはい」
乞われるままに栗萬法師は、睡蓮から伝え聞いた唄の文句を繰り返しました。

白くて冷たい死人の肌
口はあれども歯は無し
聞こえてくるのは嘆き声
光も差さぬ闇の奥
五穀が生まれ死する処
此処は犬八文字の隠し処

「・・・・・・」
四匹は黙って考え込んでしまいました。
「隠すっていったら、地下かな」
信玄くんが首をかしげます。
「秘密の小部屋かも知んねえ」
栗萬法師が横から言えば、
「意外と単純な所にあるでふよ」
と、ぶーすけくん。
「僕思ったんだけど、もしかしたら、墓場かなあ?」
信玄くんが言います。
「つめたい死人の肌って、お墓のことじゃない?」
「口はあれども歯は無しってのはなんでふか?」
「それは・・・墓穴のことかなあ・・・」
問われて自信なさげに答える信玄くんです。
「でも、このお城にお墓なんてあるの?」
今度はだっちゃんの疑問です。
「それは・・・、えっと・・・」
口ごもる信玄くんに、栗萬法師が横から口を出しました。
「ひょっとしたら、あるかも知んねえよ。きっと、今まで魔女の毒牙にかかって果てた連中の墓場が、どっかにあるんでねえかな」
「でも、そんな親切な魔女でふかね」
なかなか、すんなりとした答えが出てきません。だっちゃんは、立ち話に苛々しはじめました。だって、早く此の奥へ行ってみたいんですもの。好奇心旺盛なだっちゃんは、さっきからお城の中が気になってしょうがないのです。
「此処で小田原評定してたってしょうがないよ。進もう!」
だっちゃんはみんなを元気づけました。
「そうだね、まずは行ってみよう!」
みんなも納得して、奥へと歩き出しました。
コツーン、コツーン・・・、石の床は、突き進む彼らの足音を刻みます。
薄く暗く、寒気さえ感じる、長い長い回廊。
無言の柱が、林のように続いております。
誰もいない廊下。物音もしない廊下です。
化け物屋敷へでも迷い込んでしまった気分です。
今にも、この静けさを破って、恐ろしい魔物が現れるんではないでしょうか?
そらそら、そこの柱の影・・・。黒いものが見えたと思ったのは、錯覚かしらん。
「気味が悪いな!」
ナベをかついだ信玄くんが呟きます。彼にしてみれば、たださえナベのおかげで視界が悪いのですから、宵闇のような薄暗さでは、足元がおぼつかないのです。
「信ちゃん、手をつなぐでふよ」
ぶーちゃんが、前足を差し出してくれました。
「ぶーちゃん、ありがとう!」
「みんな、油断しちゃいけないよ!どんな魔女の罠があるか分らないんだから」
側からだっちゃんが言いました。みんなはどきどきしながら頷きました。
さてはて、何処まで続く長廊下。奥へと進む彼らに、魔女の黒い策略が待ち構えておりました・・・。


第五十話 美女と林檎は傾国の種の事


どうにか魔女の城へと突入したものの、やたらに長くて暗い廊下が続き、すっかり嫌になってしまいました。最初は、化け物でも出てくるんじゃないかと心配になって、ハラハラもしたのですが、その内、変化のない道に飽き飽きして、あくびが出る始末。その時です。ふいに、不思議な声を聞いたのは。
「あれっ、歌が聞こえてきたよ!」
だっちゃんがしきりに耳を動かします。みんなも耳をすませて聞いてみますと、

向こう通るは忠さじゃないか
近うお寄りな垣のそば
今日も今日とてかかさんが
お嫁へ行けといわしゃんす
お前とならば
片山里の
どんな貧しい暮らしでも
わしゃ嬉しいと思うもの
越すに越されぬ柴垣の
あれさ、小袖が濡れよぞえ
(竹久夢二「露路のほそみち」より)

こんな唄声が聞こえて来るのです。すすり泣くような、女の声でした。
「奥からでふよ!」
「行ってみよう!」
みんなは声のほうへ駆け出しました。しかし、信玄くんは、重たいナベが邪魔になって、勢い良くその場へ転んでしまったのです。
「あっ、みんな、待ってー!」
ところが、先を急ぐ彼らは、信玄くんが転んだのにも気がつかずに行ってしまいました。
三匹が、どかどかと廊下を走って行きますと、突き当たりに大きな扉が立ちはだかりました。頑丈な錠前で閉めてあって、鍵がなければ開きそうにありません。歌声は、この扉の向こうから聞こえてくるようです。
「どうするでふか?」
ぶーちゃんはだっちゃんの顔を覗いました。一体扉の向こうにいるのは何者なのか、もしかしたら化け物なのかも知れません・・・。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだよ!」
言うが早いが、だっちゃんは駄んべる棒で錠前を一殴り。がっしゃっと鈍い音をたてて錠前は壊れました。
「あ、開けるだよ・・・」
栗萬法師が、恐々と扉を押しました。ギイっ。耳障りな音と共に、扉は開きました。開かれた扉の向こうに待ち構えていたものは・・・、
「あれ」
と、女のかよわい声。見れば、花も恥らうような乙女が、機織の前に腰かけているではありませんか。
「あなたがたは、だれ?」
女の人は、不審そうにきれいな眉を細めました。
「わたしはだっちゃん。西方遠征隊だよ!旅の途中で、このお城に悪い魔女がいるって聞いたから、倒しにきたんだ」
だっちゃんが、みんなを代表して答えました。
「お姉さんは、こんなところでなにをしているでふか?」
今度は、横からぶーちゃんが尋ねました。問われた女の人は、悲しそうに俯いたかと思うと、袖をあてて、しくしくと泣きはじめました。
「ああ、わたしは、何を隠しましょう、その悪い魔女に攫われて、此処で召使同様に扱われているのでございます」
「なんて、悪い魔女だよ!」
栗萬法師が、義憤のあまり叫びました。
「娘さん、もう心配するこたあねえだ、おらたちが助けてやっからね」
「そうだよ!だっちゃんがこれから、悪い魔女を倒してやるんだ」
みんなに元気づけられて、女の人は、ようやく涙を拭きました。
「みなさま、ありがとう。けれども、魔女をあなどってはなりませぬ。とても、恐ろしい魔法を使う魔女なのですから。たとえば、魔女の杖に叩かれれば、忽ちその身はケダモノにされてしまいますし、魔女が呪文を唱えれば、石にだってされてしまうのでございますよ」
「それじゃ、手も足も出ねえでねえか」
さっきまでの威勢はどこ吹く風。栗萬法師はがたがたと震えはじめました。
「しかし、ここに良い手立てがございます」
女の人は、にっこりと笑いました。そして、何やら袋の中から取り出してみせました。
「あ、りんごだ」
女の人が差し出したのは、真っ赤なりんごです。あの、螺呑の園にあったりんごです。みんなは、美味しかったりんごの味を思い出して、ごくりと唾を飲みました。
「これは、魔法のりんごでございます。これを食べますと、いかなる魔法をも跳ね返すことが出来まする」
女の人は説明しながら、みんなにひとつづつりんごを配りました。
「さあ、これをお食べになって・・・」
よく考えれば、おかしい話ではありませんか。そんなに都合の良いりんごを持っているのなら、どうして女の人は、自分で食べて、魔女から逃れようとしないのでしょう・・・。しかし、赤いりんごの色艶に刺激されたみんなは、深く考えもしないで、渡されたりんごを食べました。
「お姉さん、ありがとう」
「このりんごは、いつ食ってもうめえだ・・・」
「でも、ちょっとすっぱい気がするでふ・・・」
みんなは、だんだん瞼が重くなって、うとうと眠くなるのを感じました。女の人の声が、遠くのほうで聞こえました。
「ここの魔女は、とても手ごわいのですからね・・・」
その優しそうな声が、しわがれてゆくような気がしました。
「なかなか、どうして、犬ごときには倒せませんよ」
そして、轟くような高笑い・・・。それを最後に、みんなの意識は途絶えました。
「ほっほっほ、他愛のない」
そこへ立っていたのは、麗しい乙女ではなく、意地の悪そうな顔をした魔女でありました。みんなは、罠にかけられたのです。
その時、遅れた信玄くんが、やっと追いつきました。


第五十一話 迷宮はえっしゃーの騙し絵の事


 信ちゃんが、ようやくみんなに追いついた時は、もう手遅れでした。だっちゃん達は、魔女の毒りんごを食べて、倒れていたのです。
「ふふふ、そうしてしばらく良い夢を見ているがいい・・・。目が覚めた時には、赤犬のなべ料理にしてやろうから」
魔女が今回使った毒りんごは、眠り薬が仕込んであったようです。魔女は、だっちゃんたちを料理して食べるつもりのようでした。きっと、栗萬法師は勿論のこと、天界の仙人犬であっただっちゃんやぶーちゃんですから、素晴らしい効能があるのだろうと思ったに違いありません。
魔女は、ムジャムジャと呪文を唱えました。すると、床に倒れているだっちゃんたちに、魔法の縄がかかりました。もう一回、今度は別の呪文を唱えますと、縄につながれただっちゃん達が、ふうわりと宙に浮きました。
この様子を、すっかり物陰から見てしまった信玄くんです。がたがたとしっぽの先まで震えがきて、後ろ足ががくがくします。

どうしよう!だっちゃん達が、魔法の虜になってしまった!

なんとか皆を助け出したいのですが、呪いの中華ナベを被っている身です。下手をすれば、自分自身も危ないのです。
「おや・・・?」
宙に浮かせただっちゃん達を、部屋まで運ぼうとした魔女は、変な顔して、目の玉をぎょろりとさせました。
「おかしいの?犬が三匹しかおらんわい。一匹足りはせんかの。・・・そうさ、もう一匹いた筈じゃ。ナベを被せてやったあいつが・・・」
この言葉には、信ちゃんゾクリとしました。
いけない!逃げなくちゃ!今はひとまずこの場をさらなくては!
信ちゃん、そうっと抜き足差し足、音をたてぬよう、魔女に悟られぬよう、扉の影から立ち去りました。

魔女よ!こちらを見るな!気がつくな!
ああ、神様、私の姿を闇に隠してください!

信ちゃんの目といったら、真剣そのものです。心中でカミに祈りながら、カニのように横へと進みました。あと、もう少し。もう少しで、角へ隠れるのですが・・・!

「はてな・・・。なにやらおかしな気配がするわいな」
レ・ミゼラブル!魔女は、とうとう振り返ってしまいました。そして、見つけたのです。中華ナベを被った秋駄犬が、カニ歩きで柱から柱へと移動して行くのを。
「見つけたぞ!」
魔女は、恐ろしい笑みを、顔いっぱいに広げて、地獄の底から響いてくるような、おぞましい叫びを発しました。
「見つけたぞうっ!」
その声は、長い廊下中に反響しました。
もう、カニ歩きなんかしてられない!信ちゃんは、全身の力を振り絞って駆け出しました。
「待てえ」
魔女の声が、後ろから追いかけてきました。
「待てえ」
誰が待つもんかい。
信ちゃん、重たいナベを両方の前足でしっかり押さえながら、あらん限りの力を振り絞り、もうめちゃくちゃにお城の中を駆け巡ります。
おかけで、ようやく魔女から離れたと思ったときには、何処にいるのか分らなくなってしまったのです。
「おやおや・・・、変なところへ迷いこんでしまったぞっ!」
荒い息遣いをしずめながら、ぐるりと辺りを見回すと、ああ、此処はいったいお城のどこらへんなのでしょう・・・、おかしな景観が四方八方に広がっています。
目の前には、ながーい螺旋の階段が、上と下に渦巻いております。右には、アーチに覆われた渡り廊下が伸びていて、床には群青色のペルシャ絨毯が敷き詰めてあります。右を見てみましょうか。そちらは地下への階段らしく、大理石の段々が、闇の中へと続いておりました。
後ろは、さっきがむしゃらに駆けてきた、幾つもの廊下や部屋がある筈です。
それにしても、おかしいな。
信玄くんは首を傾げました。
自分は、一階にいるものと思っておりましたが、前に見える螺旋階段の深さからはそうとう高い階にいるようでした。しかし、左の階段は地下へ下りる様子です。右の渡り廊下の窓を見ると、木の頭が見えますので、やっぱり高い場所のようなのですが・・・。
ここは何階なのでしょう。
まるで、エッシャーのだまし絵の世界へ入り込んでしまったような気分です。
信玄くんは考えました。
犬八文字は、暗い所へある筈なのだから、きっと地下に違いない。
よし、左へ下りていってみようか、と。
けれども、ゆっくり考えている猶予は、もう残されていませんでした。
後ろから、激しい足音が聞こえてきたのです。
魔女だ!魔女が追ってきたのだ!
思わず赤毛が白くなってしまった信玄くん、もう右も左もあったものじゃありません。
ふと見ると、後ろの壁に、唐草模様の描かれた緑色のドアーがついていました。
そこへ、何も考えずに入ってしまった信玄くんです。
まさかこの事が、彼の運命を決めることになろうとは・・・!


第五十二話 王座に座るは命がけの事


「エエイ、おかしいの。確かにこの辺りにいた筈じゃ」
扉の向こうからは、荒い息遣いとともに、魔女の声が聞こえてきました。
信玄くんは、前足で口を押さえながら、息を殺しました。
「フン、まあよいわい。どうせこの先は、迷路の無限地獄じゃ。どちらに進んでいようと、どうせ生きては出られまい。イッヒッヒ・・・」
ぞうっ!思わず毛の逆立つ信玄くんです。良かった!どちらにも進まなくて・・・。
「ナベかつぎなぞに構もうているのも馬鹿らしい事よな。さあて、赤犬の料理でもはじめるとするかい」
魔女はムニャムニャ呪文を唱えたと思うと、ふっと気配が消えてしまいました。きっと魔法で何処かに移動したのでしょう。
信玄くんは、恐ろ恐ろドアーを、ちょっぴりだけ開いて、外を見回しましたが、もう魔女の姿はありませんでした。ホッ。なんとか、この場を切り抜けたぞ・・・。
・・・切り抜けた筈なのですが・・・。
「ウウン!」
もじもじと身をよじる信玄くん。どうしたっていうのでしょう?そう、人は――もちろん犬も――危険を乗り切ると、気のゆるみから、ある種の生理的欲求が襲ってくるものなのです。
「シッコ、したくなっちゃったよう!」
困りました。いっくらワンコだって、それもおりこうなしつけをされているワンコなら尚更、その辺でシャーシャーやるわけにはいきません。鳥居の描かれた黒板塀に、平気でシャーとやるのは、マナーのなっていないオヂサンくらいなものです。
「トイレはどこかしらん!」
信玄くんは、きょろきょろと辺りを見回しました。彼の隠れた小部屋の奥には、もうひとつ扉がついておりまして、これも緑色に唐草模様が描かれています。信玄くんはゆっくりと、扉を開けてみました。
「なんだ!」
信玄くんは、嬉しそうに呟きました。そこは、丁度トイレになっていたのです。信玄くんは、ほっとした面持ちで白いツヤツヤのベンキに向かいました。
「ああー、すっきりした」
用を足し終わって、水を流しました。ジョゴロゴロゴロ・・・。水は渦を巻いて、奥へと吸い込まれて行きます。
「・・・・・・」
その水の流れを眺めていると、ふいに、なんだか胸のなかで、霧が晴れて行くような気持ちになりました。
「白くて冷たい死人の肌・・・」
あのおぞましい文句を呟きながら、じっと白い陶器のベンキを見つめました。
「口はあれども、歯は無し・・・」
信玄くんの目線は、ベンキの穴へと移りました。
「聞こえてくるのは、嘆き声」
ジョゴロゴロゴロ・・・。水の流れる音は、まだ続いております。
「光も差さぬ、闇の奥・・・」
水は、ベンキの奥へと吸い込まれて行きます。
「五穀の生まれ、死する処・・・」
もう、これ以上なにも言うことはありません・・・。
「トイレだ!トイレだったんだ!」
信ちゃん、呆れると共に、腹が立ってしょうがありません。大事な大事な犬八文字!信ちゃんの島流しの要因を作った犬八文字!その大切な犬八文字が、よりにもよって、便所なんかに隠してあろうとは!
「魔女めっ!馬鹿にしてるよ!」
歯軋りする信玄くんですが、ところで犬八文字は、このトイレの何処に隠してあるのでしょう。
ゴクリ。信玄くんは唾を飲みながら、トイレの「穴」を覗きました。
「こ、こんなところじゃ、入らないよね・・・」
試しに、側にあったスッポンで何度が「穴」をつついてみましたが、やはり手ごたえはありません。
「じゃあ、ここかな?」
今度は、タンクの蓋を開けてみましたが、ここでも無いようです。
「すると、ここ?」
掃除用具入れ、ゴミ箱、ベンキの裏・・・、あらゆる所を覗いてみましたが、犬八文字は見つかりません。
「あーあ、僕っておばかさんっ。こんなトイレなんかに、あるわけないじゃないの」
すっかり馬鹿馬鹿しくなってしまい、信玄くんはやれやれとベンキに腰掛ました。そして、考え事をしながら、ため息をついていましたが、ふいに、足元でひらりと影が揺れるのに気がつきました。
おや?なんだろう、この影。不思議に思って、天井を見上げると・・・。
「・・・!」
信玄くん、声なき悲鳴をあげて、ベンキから飛び去りました。
それもその筈。天井に一振りの刀が、切っ先を下へ向けて、吊るしてあったのです。刀を結んだ紐はとても細くて、今にも千切れそう。刀はゆらゆらと、小刻みに揺れ、その影が足元で動いていたのでした。
「まるで、ダモクレスの剣だ!」
信ちゃんが叫ぶと、紐はぷっつりと切れ、シャッと刀がベンキの穴へ突き刺さりました。肝をつぶした信ちゃんは、ヘトヘトとその場に座り込んでしまいました。


第五十三話 降魔の剣(つるぎ)ひらめく事


 波に沈んだような頭が、だんだんはっきりしてきますと、何処からかぐつぐつ湯の煮える音が聞こえてきました。
「あーぶくたった、煮えたった・・・」
あの懐かしい唄を歌うは誰でしょう。ゆっくりと、腫れぼったい目を開いてみました・・・。
「ひっひっひ・・・、目が覚めたかえ」
ああ、魔女のおぞましい顔。そして煮え立つ釜。気がつけばだっちゃんたちは、縄で縛られ、床へ転がされているではありませんか・・・。
「あんたが魔女?だっちゃんたちを、だましたんだね!」
だっちゃんは、悔しそうに歯をむきました。
「ほっほっほ、なんぼでもほざくがよいぞ」
「ぼくたちをどーするつもりでふか?」
ぶーちゃんが悲壮な面持ちで尋ねました。
「ふふふ、食ってやるのさ。赤犬はうまいと言うからねえ」
「あわわ・・・」
栗萬法師はぶるぶる震えました。
「おらたちゃあ、うまくなんか、ネイようっ。ま、まじいだようっ」
「そうでふよ、ぼくらは、まずいんでふ」
「お腹壊すんだよっ!」
みんなは必死になってわめきましたが、魔女は相手にしてくれず、しきりに釜の湯加減を気にしています。
「へっへっへ、地獄の釜が、紅蓮の火を噴いておるよ。赤犬どもめ、今に煮てやるからな、イッヒッヒ・・・」
燃える炎に照らし出された、醜悪な横顔のおぞましさ。みんなは縄を解こうと身をよじりますが、きつく縛られた縄は体に食い込むばかりで、なかなかゆるくはなりません。
「おら、死にたくねえよう、えーん」
堪えきれなくなった栗萬法師は、大声で泣きはじめました。
「栗萬くん、たんと泣くでふよ。泣けるのは今の内でふ・・・」
「あの釜の中は、熱いのかなあ・・・」
今や刻一刻と迫る危機・・・。みんなの表情に絶望の文字が浮かびました。
「極悪魔女め、ぬしの好きにはさせぬ・・・」
ああ、この時、何処からともなく救いの声が・・・。
「むむ、誰じゃ」
扉が勢いよく開かれました。現れたのは、重そうな中華ナベを被り、片手に燦然と輝く犬八文字を握った信玄くんの勇姿です。
「あっ、貴様は・・・」
「魔女めっ、その方の悪行の数々、しかと見届けたぞっ。許しがたい奴め、この信玄公が相手じゃ、いで、この鉄扇・・・いやさ、この名刀を食らって、くたばりおろうっ」
決め台詞もバッチリ、信玄くんは名刀を振りかざし、やあっと駆け出したまでは良いのですが、いかんせん邪魔な中華ナベ、その重さにバランスが狂って、勢いよくその場に転んでしまったのだから台無しです。
「ひっひ、馬鹿な犬よ」
すかざす襲いかかる魔女。すわ、信玄くんのピンチと見ただっちゃんたち一同、
「魔女め、こうしてやるー!」
「食らえでふ!」
みんなは不自由な体を振り絞って魔女に体当たりしました。転がる魔女に、今度は思い切り噛み付いてやりました。
「信ちゃん、今だよ」
栗萬法師の声に元気づけられ、体勢を直した信玄くん、
「魔女、今度こそ覚悟!」
振り下ろされた名刀犬八文字一閃。生々しい血が吹き出るものかと思いきや、名刀の切っ先が触れた魔女は、硬い石と化してしまいました!
「よくぞやった、信玄よ」
思いもかけぬ声が聞こえましたので、信玄くんはぎょっとしました。
「誰だいっ、何処にいるんだいっ」
「お前のすぐ目の前におりますよ」
神々しい光が天井より差してきました。振り仰ぐと、美しい衣を着けた、栗萬大菩薩の姿が!
「ハハア」
信玄くんは跪きました。
「この悪い魔女を、よく倒してくれた。さぞ、玉帝陛下も近衛長官もお喜びになるだろう」
「ハハア」
「さあ、お前にかかった呪いも解いてやろう」
栗萬菩薩は、鉄扇を取り出すと、それで信玄くんの頭に乗っかった中華ナベを、ペシリと叩きました。すると、中華ナベは真っ二つに割れ、そこから可愛らしい秋田犬の顔が現れました。
「菩薩さま、ありがとうございますっ」
感涙にむせぶ信玄くん。しかし、後ろのほうから不平の声が聞こえます。
「ちょっとー、こっちも早く助けてよー!」
縄で縛られ、芋虫のような様に転がされているだっちゃんたちです。
「おお、お前たちもいたのであった」
菩薩が白い手をひらりとかざすと、ああら不思議、縄はばらばらになってしまいました。
「さあ、信玄よ、この名刀は私がお前に代わって、近衛長官へお返ししよう」
「え?」
信ちゃんは、合点のゆかぬ顔をします。
「ほほ、お前には、新しい任務があるのだよ。栗萬法師の弟子となって、西方浄土の旅をするのだ」
「ええっ」
びっくりした信玄くんは、ぽかんと口を開けたまま、二の句が次げません。だって、これでようやく天界の職に帰り咲くことが出来ると思っていたのですからね。
「旅は長く、これから沢山の艱難辛苦を乗り越えてゆかねばなるまい。これを、お前にやろう」
菩薩さまは、先ほどナベを割った鉄扇を、信玄くんへ授けました。それから、くるりとだっちゃんのほうへ振り返ると、
「駄天大聖よ。おりこうにしているかね。お前のいなくなった天界は、たいそう平和で、玉帝陛下もお喜びだよ」
「心配しなくったって」だっちゃんは負けずに言い返しました。「この西方遠征が終わったら、きっとお礼参りに行くよ!」
「ハハハ」
菩薩は笑い声を残して、煙のように消えてしまいました。

さて、魔女を倒し、信玄くんの呪いも解け、目指すは西方浄土でありますが、困ったことに、彼らの前には、依然としてとうとうたる大河が横たわっているのでした。
「どうやって、この河を渡ったらいいんだろう」
一行が途方に暮れておりますと・・・、
「みなさま、ご安心くださいませ。私どもが渡して差し上げましょう」
優しい声に振り返ると、薄物を身に纏った、花のような人々がおりました。
「わたくしどもは、睡蓮の精。みなさまのお力で、魔女の呪いも解け、我が水盤にも水が蘇り、再び花の王位を取り戻すことができました」
「なんとお礼を申し上げればよいのやら・・・」
「ありがとう存知ます・・・」
口々に礼を述べる睡蓮の花々は、大河へ飛び込んだと思ったら、ぱっと大輪の花を咲かせました。
「さあ、私どもの上にお乗りください。向こう岸まで渡して差し上げます」
「ああ、ありがてえ、ありがてえ」
栗萬法師は、さっそく睡蓮の船に乗り込みました。みんなも後へ続きます。伽弟楽も乗せたところで、花の船は出発しました。
「ああ、いい気持ちだ!風がつめたいね!」
「こうしてると、まるでお釈迦様になった気持ちがするでふ」
すいすい、風を切って進む睡蓮船。逆巻く水もなんのその。水しぶきも快く、川風に赤毛をなびかせた一行です。彼らを待ち受ける新たな西方行路が、じき向こう岸に見えてきました。


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